最も大阪らしい雰囲気を持つ法善寺横丁の浪速割烹「」をご子息の修氏に譲り、天神坂にカウンター数席の「上野」を開く。「浪速料理とは」と自らに問いかけ、大阪の素材、人間、町にこだわりつつ、料理を研究し、活動を続けている。


 

 

 

 

 

 

 

―辻調も協力させていただいている「浪速魚菜を食べよう会」(大阪のおいしい素材を見直そうという会)を主宰されていますが、いろいろなところにお出かけになってお話される機会がおありのようですね。大阪の料理に以前から注目されていますが。

大阪で商売をさせてもらっているので、何かしら形に残るような、それらしきことをしたいなぁと思っているんです。「京料理」や「江戸料理」というのを売り物にしている店はあるのに「浪速料理」「大阪割烹」っていうのは少ないでしょう。京都には歴史と伝統があり、「京野菜」という京都でしか作られていない独自の野菜があります。一種のブランドですよね。大阪にも、「天王寺蕪」「泉州の水茄子」「鳥飼茄子」「こつまなんきん」「毛馬胡瓜」など、独特のすぐれた食材が多くあります。こういった食材をより多くの人たちに知っていただくために、商売のかたわら、勉強会を行っているのです。

―先生のご経歴を少しお伺いしたいのですが。お生まれは河内の滝畑ですね。

はい、今、滝畑ダムになっている辺りです。祖父の代から備長炭を焼いている家に生まれました。仕出し屋の「川喜」に奉公に行っている人が知り合いにいたので、そのツテで料理の世界に入ったんです。15歳の時でした。ガスや電気が発達するので、炭はそのうちだめになるだろう、食べもの屋になれば、食べるものは何かあるだろう、というくらいの気持ちでした。
最初は出前持ちをさせられるんです。道が分からず大変でした。やっと目的地に着いたかと思えば、今度は帰ることができなくてねぇ。

―20歳そこそこで料理長になられたというのは、本当ですか。

結婚式場の走りみたいな所でね、他の店を手伝ったりして6年がたった20歳過ぎの頃だったと思います。突然師匠に「ここをやれ」といって連れて行かれたのが、モルタル敷きでシンクがあるだけの場所。「大工さん連れてくるから」と言われても、開業まで半月ないのですよ。必死でした。師匠は15歳で料理長をしたといいましたけど、よく考えたら、師匠の時は大人はみんな軍隊に取られていたので子どもしかいなかったんですね。

―今のように情報のある時代ではなかったので、若年で料理長というのはさぞ大変だったでしょうね。いったん「川喜」さんに戻られた後、4年ほどして独立されますね。この時から、すでにお店の名前は「」だったんですか。

はい。「一品料理とお食事」というようなことを肩書きにつけていたように思います。最初は苦労しました。誰もお客は来ないのですから、道路を通る人に店に入ってもらうためにどうしようかと考えました。色紙にいろいろな宣伝を書くこともしました。そうこうしていて思いついたのが、「季節ご飯」です。「季節」とはいっても日替わりなんです。単純なんですが、近所の人に毎日でも来てもらいたいという気持ちからです。今から考えたら、ご飯ばかり食べに来るはずはないと思えるんですが、とにかく目を引こう、近所の人にだけでも変わったことをやっているなと思わせようとしていたんです。

―そういう出し方というのは、当時、他のお店ではどうだったのですか。

まったくなかったですね。ある時、「むかごめし」を作っていました。小さなむかごを、全部包丁でむいてから炊き込むんです。そうしたら、たまたま来ていた雑誌記者が、私に何も教えないまま雑誌に記事を載せたんですよ。しばらくして、お店に来る人がみんな同じ雑誌を持って並んでいるんです。「おたくが載っているから来たんや」とお客さん。珍しいご飯をやっている、というような記事でした。定食にして日替わりでした。
それが話題になったんですよ。次々と来てくれるのはありがたいですが、私とことしては一品料理を売りたかったんです。ご飯ばっかり売れるのは、ちょっと困るじゃないですか。それに深夜まで営業していましたから、おそくにご飯は食べないでしょ。日に2回来るお客さんがたくさんいました。夕方食べに来て、スナックやクラブの帰りに大勢を連てやって来る。景気のええ時でしたからね。2回目の時は旦那方は酔っ払っているので、うどんとか汁物が食べたいだろうと思って雑炊を始めたんです。同業者が「雑炊を独立させたのはあんたが初めてやなぁ」って言ってくれました。あまりカッコいいもんじゃあないですが。とにかく、ご飯ものだけというのはいやでしたから、支店を出し、その時点から、「浪速割烹」というのを作っていったんです。清水町・畳屋町に2軒店がありました。そのうち、料理長が独立したいという話にもなりましてねぇ。私自身は1軒の店にいてじっくり料理を作りたい人間ですから、2軒を掛け持ちでするのはいやなので、店ごと買うてもらうことにしました。そうやって独立する人間が何人か出て、3回目くらいの時、法善寺に来ました。

―法善寺に来られたのは昭和52年(1977)ですね。

当時、周防町がヨーロッパ通りになるという話が持ち上がっていました。アメリカ村ができた後、今度はヨーロッパ通りを作るというのです。若者の町になってしまうなと危機感を覚え、他の店を探しました。中でも、法善寺で目をつけていた所を、風俗店が買いに来ているという噂を聞きつけました。
不動産屋は売るのが仕事やからと言うのですが、私はショックでした。でも、口惜しいことに当時の私にはお金がありませんでした。イチカバチカの思いで銀行に行って話をしましたら「やられたらどうですか?」「貸してくれる?」というところで一件落着です。

―もしその時、先生が銀行に行っておられなかったら、今はどうなっていたことか……。ところで、紗羅陀(サラダ)、愚羅丹(グラタン)、その他いろいろな当て字のようなものが献立の中に出てきますね。「割鮮(かっせん)」「酒媒(しゅばい)」など、何やこれは?と興味をひかれるものも多いです。何かヒントになるものがあったのですか。?

例えば、野菜の言い方でセロリは「オランダ三つ葉」、白いアスパラは「西洋独活」でしょう。
また、国の名前でも、「伊太利亜」「和蘭」など漢字がありますね。こんなことを考えながら、この料理は酒と人をつなぎよる、媒介のようなことをしているなと思って勝手につけたのが「酒媒」です。「紗羅陀」「愚羅丹」は当て字、「割鮮」は古い言葉です。普通に書いてあるとさっと見流してしまうでしょ。雑誌なんかの宣伝にしても、なにか興味をひくようなものだったら、ぱらぱら見ていてもあれっと思って戻って見るじゃないですか。それと同じことですよね。違うことやっているなぁというイメージを与えたいのです。

―ホワイトソース、ドレッシングなど洋風のものをよく使われますが、そういったものは、どなたかに教えてもらわれたのですか。

ホワイト・ソースぐらいは師匠もやりました。最初は「割りソース」といってケチャップとウスターソースを合わせてだしで割って葛を引いたもの。そういう古風なものをやっていました。ホワイトソースを初めて見た時は「おおっ」と思いました。
若い時は、いろんなものに興味を持ちましたね。外国の方が店に来られた時など、師匠が自分でするのがいやなものだから、私に任せるんです。それが嬉しく、また、勉強にもなりました。また、結婚式場にいた頃、洋食の部もあって閑な時に手伝わせてもらいました。そばに寄ることはできなくても、見ることはできるので。フランス料理の辞典を買ってきて調べてみたりもしました。20年くらい前、本格的にフランス料理が入ってきました。日本人の食生活もだんだん変ってきていたので、日本の人たちに日本料理を見直してもらうためには、多少洋風なものを取り入れなければならないと考えていました。でも、一旦やると受けがよかったので、なかなか純粋な日本料理に戻せない。そろそろ、戻さなければならないと考えていました。ただ、全部やめてしまうのではなく、日本料理の中で研ぎ澄まされて、自然に使えるようなものは残していくべきだと考えています。また、「創作」という言葉を以前はよく使っていたのですが、今はやめているんです。
なぜかというと、洋風にすれば創作といえると勘違いしている人がよくいるからなんです。そういう料理と同じように捉えられると困るのでね。

―先生がいろいろ勉強された中で、いわゆる「京料理」と「浪速料理」の根本的な違いは何ですか。

私にはよくわかりませんが、「京料理」はお公家さんの料理や都としての雅というものを意識した料理ではないですか?「浪速料理」は庶民的な料理から発達した料理じゃないかと思うんです。内陸に位置する京都は新鮮なものは集まりにくい。限られた材料の中で工夫を重ねて作られ、都のものとして磨き抜かれていきました。一方、材料の調達役をしている大阪は、「日本の財宝は浪速にあり」「日本の台所」という言葉も残ってるよう、日本国内だけでなく、外国に向けての玄関でもあったので、いろんな素材の集まり易いところです。それが「魚庭(なにわ)」「菜庭(なにわ)」といわれた由縁でしょう。大阪のほうが食材の幅が広かったと思います。大阪というのは商人が作り上げた町で、同じ食べるなら、おいしく気楽に食べようという気持ちがあるんですよ。恵まれた食材と庶民感覚から作り上げられた料理が「浪速料理」だと思います。


―どのようにお客様に楽しんでいただこうと思っていらっしゃいますか。ご商売のモットーと、日本料理に携わる後輩たちへのアドバイスをお願いします。

料理というのは作り手から食べ手への一方通行ではだめだと思うのです。これはと思う料理をタイミングよくお出しすることによって、より一層おいしいものに変化するのです。私はお客様とのコミュニケーションを大切にしています。最近ではひんぱんに足を運んでくださる方も少なくなりましたが、やはり、作り手がお客様の好みを知るとか、お客様のリクエストをお聞きするようなことも料理する上では必要ではないかと思います。技術も大切ですが、料理することの意味や意義というものが分かれば、自然と料理はうまくなるんじゃないかと思います。今では教えてもらえるのですからそのありがたさを分かっていれば上達が早いと思いますね。