天日で豆瓣醤を熟成させる。
壁面に「川菜之魂」の文字が見える。

 6月半ばに念願であった四川省成都を訪れた。成都へは成田空港からの直行便を利用したが、一眠りする間もなく4時間余りで成都空港に到着する。この路線は今年の4月から中国・西南航空によって新しくできたものである。7月からは関空発の便も就航し、こちらは3時間30分とさらに所要時間が短い。以前、日本から成都に行くには上海を経由(上海と成都は1760km離れている)して半日ほどを費やしたようだが、四川省もずいぶんと近くなったものである。

 四川省は熊猫(パンダ)の生息地としても有名だが、今回の旅の目的は四川料理の中でも小吃、家常菜を中心に「四川風味」の本質を探ることにある。四川風味を作り出す食材、調味料の数は多く、また四川の各地に特産品があり、永川の豆県の豆瓣醤、茂紋の山椒、保寧の酢、宜賓の芽菜、自貢の井塩など、挙げると限りがないが、中でも県豆瓣は「川菜之魂(四川料理の魂)」といわれるほどの代物である。
 
 
 
   一夜明けた成都は朝から激しい雨が降っていた。出発時には降り止んだが、湿った空気は日頃の曇天よりもさらに重い。成都市から100kmほど離れた「県」に行く。県は豆瓣醤の故郷である。四川料理を象徴する味のひとつに「麻辣味」があるが、これは唐辛子、山椒をたっぷりと効かせる。麻辣味の典型的な料理である「麻婆豆腐」「水煮牛肉」などは、唐辛子の強烈な辛みと山椒によって唇、舌がビリビリと痺れ、普通の人はヒーヒー、フーフーといいながら、汗びっしょりになって食すものである。しかし、麻婆豆腐であれ、水煮牛肉であれ、単に辛いだけでなく、味に深みとコクがあり、旨みがある。これは県豆瓣でなければ生まれない風味なのである。

 県で豆瓣醤が作られるようになったのは約300年前といわれている。この豆瓣醤は偶然にできたもので、当時、陳という人が陜西省から四川省にそら豆を馬で運んできたが、そら豆が馬の汗で発酵してしまった。もったいないので陳さんは唐辛子、塩を加えて熟成させ、もっぱら自分の家で使用していたが、その後、改良を重ねて豆瓣醤として売るようになり、評判を得たという。

 県では、温度、湿度、空気、水質の良さなど豆瓣醤を作るのに適した条件が整っている。四川省の中央部に位置する県は、亜熱帯性気候に属し、湿度が高く、雨が多く、空気も流動しない。豆瓣醤の原料の唐辛子は細長い「二荊条」という種類を使う。四川産の唐辛子は「朝天椒」がよく知られているが、こちらは桜桃のような丸い形をしている。二荊条という唐辛子を塩水で発酵させる。そら豆も同様に塩をして発酵させたものをその後、ブレンドして寝かせる。辛みだけでなく、発酵したそら豆、すなわち味噌の味が独特の旨み、風味を醸し出す。

 「二荊条」という唐辛子は
 15、16cmの長さになる
 
 
   製法はすべて手作りで大きな甕に入れて露天で熟成させる。雨の日は傘をかぶせて雨水を防ぐが、天気の良い日は傘をはずし、夜露を入れ、日中は乾燥させる。毎日、特別製の棒を使って甕の中を混ぜ合わせ、全体を均一にして発酵を促す。この作業はかなりの重労働である。夜露、湿気、天日が不可欠という。最低でも1年以上発酵させたものが市場に出回るが、普通は2年を経たものが多く、最上品は3年ものである。また、一般市場には出荷されないが、ビンテージものの5年熟成の豆瓣醤もある。今回、訪れた「鵑城牌」というブランドの工場では、年間500トンを生産している。

 成都に滞在した3日間で120品余りの料理を試食した。その中で印象に残った料理を2、3品挙げておきたい。まず、本場の麻婆豆腐は異なった店で4回食べたが、どの店の味も一様ではない。言い方を変えればそれぞれの店の味なのである。本家の「陳麻婆豆腐店」は西玉龍街197号に移転し、近代的な店に姿を変えていたので、その昔、万福橋にあった頃とは様相が異なる。残念ながら今回は本家の麻婆豆腐が最もレベルが低い印象を受けた。中国の伝統的な味、技術を継承するための商標である「中華老字号」の金看板を持ち、全国的に有名な店ではあるが、店の中でレトルトの麻婆豆腐をお土産にと売り子がテーブルを回る姿からは、我々が思い描いてきた本店への憧憬の念は消え、もはや過去の遺産になってしまっていたのは悲しい事実である。
 
 
 

屋台で食べる「回鍋炒飯」。
これで10元(約150円)。
 変わったところでは裏町にある屋台で「回鍋炒飯」に出会った。豚肉、蒜苗(葉ニンニク)、そして四川料理の魂を加えた典型的な四川風味のチャーハンである。日本でよく知られている「回鍋肉」の入ったチャーハンと理解していただければよい。作り方は、茹でた皮付きの豚肉を小さな角切りにし、豆瓣醤、豆、ニンニクのみじん切りと一緒に炒め、最後に蒜苗を加えて取り出す。回鍋肉には甜麺醤は加えないのが本当である。これも県豆瓣に風味とコクがあるからである。次に鍋を油ならしして米飯を炒め、先ほどの豚肉を入れて炒め合わせ、醤油で味を調える。やや濃い目の味になるが、回鍋肉をおかずにしてご飯を食べるようなものではなく、不思議な味がする。  
 
 
   紙面に限りがあるので詳しくは報告できないが、最後に四川卞氏菜根香烹技術学校を訪れたので紹介しておきたい。この学校は民間企業が独自に経営する職業学校であり、1998年に開校したという。日本と比較すれば設備的には目を見張るものはないが、授業中に訪れたところ是非参観してくださいといわれ、講習室に入る。コンクリートを固めただけの階段教室で、教授が黒板に材料の分量を書くだけでレシピなどプリントしたものは何もない。すべて自分で筆記しなければならないのである。後ろの生徒にノートを見せてもらったが、見事にぎっしりと書き込まれている。思わず「偉いね!」と誉めた。将来、ここから何人の四川料理の名シェフが生まれるだろうかと思いながら教室を出る。成都では珍しく、快晴で強い日差しが校庭に降り注いでいた。

 成都郊外にある調理師の職業学
 校の授業風景。
 
〈中国料理主任教授 松本 秀夫〉