海外経験が豊富で、気さくな人柄がスタッフからも慕われている「パン パシフィック ホテル 横浜」の総料理長の河合隆良氏にお話をうかがいました。
 
―フランス料理の道を志されたきっかけは何ですか。
小学校の頃、テレビに村上信夫さんが出演なさっていたのを見て、あんな風になりたいとあこがれたのが始まりです。また、実家が八百屋で、子供の頃から当時では珍しいマッシュルームやアスパラといった野菜に親しんでいましたし、母がそういった野菜の料理の仕方を研究していたことも影響していると思います。
―修業時代はいかがでしたか、また海外でのご経験も長いようですが。
辻調卒業時は第2次オイルショックの時で就職が厳しく、希望していたホテルに就職できず、東京の街場のレストランを転々としました。当時のコック修業はきびしく、なぐられながら教わる世界でした。実力のある者が出世するべきと思っていましたが、実際は年功序列のタテ社会で、日本のこの仕組みが疑問に思えて海外へ飛び出しました。
 1977年にカナダに渡り、辻調の先輩が経営している日本料理店を足がかりにし、小さなホテルに入りました。ここで海外のホテルで働く自信を得て、「ウェスターン・インターナショナル・ホテル(現ウェスティンホテル)」へ。’80年ノルウェー、’81年スイス・ローザンヌ、’82年フランスを経て’84年に再びカナダへ。’86年からはアメリカです。アメリカではサンフランシスコの「マサズ」のスーシェフも務めました。各国でいろいろな部門を務めたことが勉強になったと思います。その後’94年に「パン パシフィック ホテル サンフランシスコ」の総料理長、そして96年に「パン パシフィック ホテル横浜」の開業準備室に総料理長として参加しました。
―料理についてこだわっている点や、またホテルの総料理長として心がけていらっしゃる点は?
レストランの感覚ややり方を大切にし、料理を前もって作らないようにしています。現場にはきついことですが、品質が落ちないし、衛生面でも管理しやすいので、それが当たり前になってほしいと思います。それから、うちではすべての部門の味見をさせます。ホテルは作業が分業制なので、それぞれの味見をすることで、全員が全体の流れを掴めるようにしています。また、朝、ホテル内を回ってキッチンスタッフと挨拶を交し、握手をしたりしてコミュニケーションをはかります。ホテル内のさまざまなことが料理に関わってくるので、総料理長はホテル全体を見、各部門と情報交換することが必要です。そのためにもホテル内の各部門の壁をなくしてオープンにしたいと思います。
―スタッフの育成について。
スタッフには、料理のイメージを伝えてヒントを与え、それにより近づけるよう努力するように言っています。細かい数字を覚えるより、自分の感覚で作ることが大切です。常に自分で考える場を与えるようにしています。
―後輩に対して一言お願いします。
今の世の中は情報が多くて若い人は恵まれている反面、忍耐がなくて飽き性の人が多く、仕事が長続きしません。物事にはステップがあります。たとえば、基本ができていないと新しい料理を目指してもモノになりません。創作料理をおいしく作るにも基本が大切なんです。夢に到達するには順序を踏むこと。努力も忍耐も必要です。
―河合総料理長のこれからの目標、また夢は?
「パン パシフィック ホテル」の姉妹ホテルも巻き込んで、もっといろんなことを展開したいと思っています。個人的にはやはりレストランを持つのが夢です。