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<Chapter3>
ヌーベル・キュジーヌの時代に活躍した料理人
ジャンドラベーヌ
Jean Delaveyne(1919〜1996)
マロル・アン・ユルポ(アエソンヌ県)生まれ。当初は菓子職人を目指していたものの、1935年に料理人に転向。イギリスのホテルでの仕事を多く経験した後、1957年、パリの郊外ブージバルに『カメリアCamélia』という店を構えました。「簡素化した料理」を提唱しました。また、「キノコ博士」として異名をとるほどキノコ類には詳しかったと言われています。日本にいち早く“ヌーヴェル・キュイジーヌ”を持ち込んだ料理人でもあります。
レストラン『カメリア』は、ミシュランの評価として1963年1ツ星、'72年に2ツ星を獲得しました。1985年には現役を引退し、技術顧問となり、'96年パリでその生涯を閉じました。 |
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ミッシェル・ゲラール
Michel Guerard(1933〜)
1933年、パリの北郊ヴェトゥーユ(ヴァル=ドワーズ県)生まれ。実家は肉屋を営んでおり、ノルマンディー地方に土地を所有、牛を飼育していました。17歳の時に地元の製菓店(トレトゥールも営んでいた)『マンド・ラ・ジョリ』で見習を3年経験後、C.A.P(職業適性証明書)試験に合格した後、ルーアンやディェップ、トートなどのミシュラン2ツ星評価レストランなどで現場経験を積みます。
その後、ジャン・ドラヴェーヌ氏と出会い、「精神的父親」と崇めるようになります。兵役の後、『マキシムMaxim's』、『リュカ・キャルトンLucas
Carton』、ホテル『ムーリスMeurice』、ホテル『クリヨンCrillon』などで仕事に従事します。1958年M.O.F.を取得。そしてパリの郊外アニエールで自らのレストラン『ポトフPot
au Feu』を開店します。この店は瞬く間に評判をよび、直に手狭になるほどでした。
1972年、トロワグロの紹介でパルテレミーと結婚。これを機にパリ市内で広い物件も探しましたが、最終的に夫人の父親が経営していた温泉療養ホテルに興味を示します。そして、1979年ランド地方のウジェニー=レ=バンに移転し、『レ・プレ・エ・レ・スルス・ドゥジェニー Les
Prées et les sources d'Eugénie』を開店。この頃から「美味しく食べて痩せる(cuisine
minceureキュジーヌ・マンスール)」という言葉を自らの料理に用い、現在のダイエット料理を実践します。エステも併設した彼の店には時代の先取りが感じられます。
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アラン・サンドランス
Alain Senderens(1939〜)
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ルキャ・カルトンの入り口を少し改装
(2006年2月撮影)
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「料理の哲学者」の異名をとるアラン・サンドランスは1939年フランスの南西部で生まれる。地元で料理見習の経験をした後、パリに赴き、21才で『トゥール・ダルジャンTour
d'Argent』や『ルキャ・カルトンLucas Carton』において伝統的料理の基礎をしっかりと学びます。
『バークレー』『オルリー空港ヒルトンホテル』を経て、68年にパリのエクスポジション通りに『L'Archestratラルケストラート』を開店。70年に1ツ星、71年には2ツ星を獲得します。77年にパリ7区ロダン美術館の向いに移転し、78年には3ツ星を獲得します。1986年にはマドレーヌの伝統あるレストラン『ルキャ・カルトンLucas
Carton』のオーナーとなります。
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天井からの照明がローズ
テーブルクロスもない
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2005年夏にミシュランに3ツ星を返上し、時代のニーズに合った固苦しさのないレストランにすることを宣言し、話題をよびました。そして、2005年9月にはミシュランの評価なしの店としてスタートします。現在の店内は薄いピンクの照明で、テーブルクロスは無し、2Fにはタパス・バーがあります。それでも2006年のミシュランでは、2つ星の評価がつけられました。
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ジョエル・ロビュション
Joël Robuchon(1945〜)
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L'Atelier
de Robuchon
ラトリエ・ド・ロビュション
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1945年、フランス中部ポワティエ生まれ。
1960年
神学校に通っていたが、15歳の時、家庭の事情により仕事を身につけるため、ホテル・レストラン『ルレ・ド・ポワティエRelais de
Poitiers』において料理見習いを始めます。1966年 パリのレストラン『バークレー』で働きます。当時の同僚には、アラン・サンドランスやアンリ・フォージュロンなどがいました。
1974年 28歳でパリのホテル『コンコルド・ラファイエットConcorde Lafayette』の総料理長となります。大ホテルの厨房で指揮をとることで、多数の部下を動かす管理能力を身につけ、仕事の幅を広げていきます。1976年
31歳でMOFの栄誉に輝きます。1981年 パリ16区にレストラン『ジャマンJamin』を開店。
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La
Table de Robuchon
ターブル・ド・ロビュション
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1984年、史上最短記録でミシュラン3ツ星を獲得。1994年、やはり
パリ16区のレモン・ポワンカレ通りに移転し、レストラン『ジョエル・ロビュションJoël Robuchon』とします。1994年
東京恵比寿にオープンしたレストラン『タイユヴァン・ロビュションTaillvent-Robuchon』の料理を監督・指揮を司ります。
1996年 「完璧な味とサーヴィスを追求し、最高の状態でリタイアしたい」として、51才でレストラン『ジョエル・ロビュション』を閉店、現役から引退します。しかし、2003年
4月、東京・六本木ヒルズに『ラトリエ・ド・ロビュションL'Atelier de Robuchon』開店。5月にはパリ7区にも『ラトリエ・ド・ロビュション』を開店。そして、2004年
5月にはパリ16区に『ターブル・ド・ロビュション』開店。東京・日本橋高島屋に『ラトリエ ドゥ ジョエル・ロブション サロン・ドゥ・テ』をオープンし、ますます大活躍です。
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ジャック・マキシマン
Jacque Maximin(1948〜)
ジャック・マキシマンが現在のフランス料理に大きな影響を与えたのは1980年代のことです。マキシマンは1979年にM.O.F.を取得し、当時ニースのホテル『ネグレスコNegresco』のレストラン『シャンテクレールChantecler』の料理長の職にありました。スピードとサッカーをこよなく愛し、ポルシェと大型2輪バイクを所有し、サッカーに至っては厨房スタッフでチームを作り、午後の仕込みを中止させて試合に出掛け、ディナーの開店ぎりぎりに戻り、信じられない瞬発力と集中力でディナーの準備をするなどと、まことしやかに話されていました。あらゆることがそれまでの料理人の「型」を破ったシェフでした。マキシマンの作り出す料理は無駄を極力抑え、美しく、そして軽いものでした。一躍世界中に評判になったマキシマンは数年後、ニース市内で独立、しかし経営には料理ほど冴えはなく、やむなく閉店。少しの期間なりを潜めていたが、1997年ニース近郊の小さな村サン=ポール・ド・ヴァンスに店をオープン。いきなり2ツ星を獲得。2006年も2ツ星だが、髪の毛は白髪になり、80年代の勢いは感じることはできません。 |
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ジャック・シボア
Jacque Chibois(1952〜)
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ジャック・シボア氏
M.Jacque Chibois
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フランス中央部、リモージュに生まれる。ペリゴールの出身の母親は農業を営む傍ら、訪れた人たちに食事を提供していました。このような環境に育ったおかげで、トリュフやフォワグラ(ペリゴールの名産)という素材にも幼少の頃から慣れ親しんでいました。この田舎で味わった母親の味が現在のシボワの味の原点だと言う事です。シボワは農業を自らの職業とすべく農業学校に入り、技術資格を取得します。
しかし、やはり料理人の道を志し、1971年からフランスの有名レストランを巡って、料理の修業を始めます。
ミッシェル・ゲラールの店に5年、その後、ドラヴェーヌ、ロジェ・ヴェルジェ、ルイ・ウーティエの店と修行を続け、1981年カンヌのホテル『ロワイヤル・グレー』のシェフに就任します。
4人の巨匠の元での貴重な料理修業、体験から会得したものを実践することになります。
その後1996年南仏の内陸部、香水で有名なグラスに『バスティード・サン=タントワーヌBastide
St-Antoine』をオープン。2006年ミシュラン2ツ星を得ています。 |
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ピエール・ガニエール
Pierre Gagnaire(1950〜)
フランス中東部アビニヤックに生れる。学校を卒業後、有名レストランで修行、1976年父親の経営するレストラン『クロ・フルリー』に戻り、翌年、77年に店を引き継ぎます。この店はミシュラン1つ星を獲得。1981年、サン=テチェンヌにレストラン『ピエール・ガニエール』をオープンし、86年には2ツ星を獲得。93年に同市内で移転、同時に3ツ星を獲得。しかし、1996年負債を抱え、店の閉店を余儀なくされます。ミシュランには評価を返還。同年パリ8区の『ホテル・バルザック』にレストラン『ピエール・ガニエール』を開店。97年に2ツ星、98年に3ツ星を獲得しています。
2001年、調理科学者エルヴェ・ティスと共同で“分子料理”あるいは“科学と料理”に関する仕事を始める。
2002年、ロンドンにカジュアルであるが高級感があり、パリとは全く異質なコンセプトの『スケッチ』を、2005年には東京に『ピエール・ガニエール・ア・TOKYO』をオープン
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フレディー・ジラルデ
Freddy Girardet(1936〜) |
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スイスの西部フランスとの国境に近い村クリシエに1936年に生まれる。レストランの正面には「HOTEL
DE VILLE(村役場)」と言う表示を見てとることができます。これは元々この建物が村役場でそこのカフェに1953年ジラルデの父親がシェフとして雇われたことから始まっているのです。当時スイスでは田舎の役場にカフェが併設されることは珍しくなく、父親が雇われたこのカフェでジラルデ自身も簡単な料理を作るのを手伝っていました。働く父親の姿を見ることで料理人になることを決意したジラルデは学校を出るとローザンヌのホテルに料理修行として入ります。65年父親が急死したため、父親の後を継ぐことになります。ある日、常連客に連れられ、フランスのトロワグロ兄弟とボキューズの店で食事をする機会に恵まれます。“ヌーベル・キュジーヌ”の担い手と謳われたシェフたちの料理は、ジラルデにとって想像を超える衝撃でした。そして、トロワグロ兄弟が3ツ星を獲得した1968年、毎週末になるとジラルデの姿をレストラン『トロワグロ』の厨房に見ることができました。まるで自分を家族のように受け入れてくれるトロワグロ家の優しい愛情に触れ、ジラルデは美味しい料理を作っていく決心をしたのです。そして、69年以降店を大きくするために精力的に「役場」の他のスペースを買い取り、拡大していくことになるのです。やがて自ら“Cuisine
spontanée(自然発生的料理)”と名づけたジラルデの料理は評判を呼び、3ヶ月先まで予約が取れないというフランス本国のレストランより人気あるフランス料理店となります。
グリーンピースの薄皮を1粒1粒丁寧に剥いた料理の細かさは今でも私の記憶に鮮明です。ジラルデは1996年還暦を迎えたと同時に現役を引退。現在は元スーシェフのフィリップ・ロシャPhilippe
Rochat(1953年生まれ)が再開し、新たな評判を勝ち得ています。 |