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コラム&レシピ
<イントロとして>
 私が生まれた1950年から現在まで、この60年足らずにおけるフランス料理の変化は目覚しいものがあったように思います。「フランス料理のバイブル」と言われる《フランス料理の手引きLe Guide culinaire》はエスコフィエEscoffierと言う料理人が著したものです。この本が完成したのが1902年。もちろんそれまでにも数多くの料理人が料理書を著しています。ただ、初めて出し汁からソースやデザートまでを “体系的”にまとめたのはこの著書だと言えます。その後、フランス料理には様々な新しい動きが出てきましたが、それらはエスコフィエを否定するのではなく、進化させようというものだと思います。
 ここ10年来の変化はさらに目覚しいものを感じます。もちろん常にクラッシックな料理を愛する作り手も食べ手もいます。私は1973年にヨーロッパに渡り、ベルギーを皮切りに、『ポール・ボキューズPaul Bocuse』(リヨン), 『ラルケストラートL'Archestrate(アラン・サンドランス)』(パリ),『ロアジスL'Oasis(ルイ・ウーチエ)』(ラ・ナプール),『ローベルジュ・ドゥ・リルL'Auberge de l'Ile(エーベルラン)』(イルオゼルン)の4軒で仕事をする機会を得ました。また、辻調グループ校のフランス校で通算5年間勤務しました。この間に私が出会った料理人や訪れたレストランで、また雑誌や本で見たり聞いたりしたことを「私的」にまとめてみました。始まりは“ヌーヴェル・キュイジーヌ”からです。
 
<Chapter1>
“ヌーヴェル・キュイジーヌ”のリーダー的料理人を育てた人々
アレクサンドル・デュメーヌ Alexandre Dumaine(1895〜1974)
   
 
アレクサンドル・デュメーヌ
 
   
 残念ながらお目にかかる機会には恵まれませんでした。多彩な経歴を持つ彼は、アフリカでの仕事の後1931年にソーリューSaulieu(車でパリからリヨンへ向かうこと約3時間、国道6号線沿い)という村で『ラ・コート・ドールLa Côte d'Or』と言うホテル=レストランの経営を始めます。それまでの彼の名声が客を呼び1951年にこの店はミシュランの3ツ星を獲得します。
   
 
ジャン=ピエール・ビュウ
現存する最後の弟子とよく言われるディジョンDijonの『ル・プレ・オ・クレール Le Prè aux Clercs』のオーナー・シェフ、ジャン=ピエール・ビュウJean-Pierre Billouxには会った事があります。現在はご子息のアレクシ・ビュウAléxy Billouxが後を継いだ形です。ジャン=ピエール・ビュウによると、デュメーヌは「ディジョンで近くに住んでいて、よく料理の話や相談にはのってもらったが、直接一緒に仕事をしていたわけではない」とのようです。
 
アンドレ・ピックAndré Pic(1893〜1984)


 現在は孫に当たるアンヌ=ソフィ・ピックAnne-Sophie Picが後を継ぎ、レストラン『ピックPic』 (ヴァランスValence)を盛り上げています。初めアンドレは現在の店のローヌ河を挟んで対岸にあるサン=ペレイSt-Pèrayという町でオーベルジュを営んでいましたが、料理で評判をとりヴァランスに新しく店を構え、1939年にはミシュランの3ツ星を獲得します。
   
 
ピック家の墓所(サン=パレイ)
 
 後を継いだジャック・ピックJacques Picもミシュランの3ツ星を維持し続けます。前もって予約が必要だった“ブレスの肥鶏のヴェッシー包みPoularde de Bresse en vessie”や“トリュフのパイ包みTruffe en croûte”といったこの店の料理は絶品でした。またムニュー・ラブレー(『ピック』のスペシャリテで構成されたムニュ・デギュスタシヨンの一種)を考え出したのもこのジャックです。この店はしっかりと地元に根付いたレストランで、スタッフは基本として地元の人間しか雇わないことでも有名でした。ジャックが亡くなった後は息子のアランが後を継ぐのかと思われましたが、ミシュラン評価が2ツ星に降格してからはアランの妹、アンヌ=ソフィーとご主人のシナピアンご夫妻が経営に携わっています。数年前からレストラン、ホテル、キッチンを大きくリニューアル、2006年には併設のビストロを近代的なドライブイン感覚のレストランに変身させ、昔の栄華を取り戻す気迫が感じられます。
前出のアレクサンドル・デュメーヌもアンドレ・ピックも弟子を待たなかったのが共通点のようです。
 
フェルナン・ポワンFernand Point(1898〜1955)
   
 
 父親を始めとして、母親も祖母も料理人という環境に生まれ育った彼は父の下で料理人の見習いを始め、『ル・ブリストル Le Bristol』(パリ)、『フォワイヨFoyot』(パリ)、『ロテル・ロワイアル L'Hôtel Royal』(エヴィアン)などの有名店で働き、基礎を作りあげました。こういった経験を通じて彼は料理に対する3つのポリシーを確立したのです。それは「前日から仕込みをしない」、「ソースの重要性」、「もっとバターを」というものでした。
   
 
ポワン家の墓所(ヴィエンヌ)
 1923年、父オーギュスト・ポワン Auguste PointはヴィエンヌVienneにあったレストラン『ギューGuieu』を買い取り、2年後店を引き継いだフェルナン・ポワンは、レストラン『ラ・ピラミッドLa Pyramide』と改称します。1930年にはアルデッシュ出身のマリ=ルイーズ・ポーラン(愛称 マド)と結婚、じきに彼女の秀でた接客センスや知性は店にとって欠かせない存在となります。マドはレストランには料理だけでなく、内装やカトラリーや雰囲気が重要な要素と考え、それらを完璧に整えたのでした。間もなく『ラ・ピラミッド』は世界中の美食家たちから注目される名実ともに世界一のレストランとなります。またポワンの元には後年“ヌーヴェル・キュイジーヌ”の台頭とともに世界的に有名になる料理人たちが弟子入りしたのでした。彼らに関しては別項目で語ることにしましょう。
 
ウジェニー・ブラジエEugénie Brazier(1895〜1977)
   
 
肥鶏のドゥミ=ドゥイユ
 19世紀末、リヨンを中心とした地域には「メール〜 Mère〜(おばさん)」とよばれる女性の料理人たちが数多くいて、店をとりしきっていました。メール・ギーGuy、メール・ビュイソンBuisson、メール・フィユーFilloux、メール・ブランBlancなどがいます。中でも後年レストラン『ラ・メール・ブラジエLa Mère Brazier』のオーナー・シェフとなるウジェニー・ブラジエはひときわ有名な「メール」でした。20才でリヨンの大きなお屋敷の召使として入り、そこで料理を任されます。お屋敷での仕事を辞した後、当時有名なレストラン『メール・フィユー』のもとに弟子入りを果たし、レストランビジネスも学ぶものの、フィユーとは気が合わず、『ラ・ブラッスリー・デュ・ドラゴンLa Brasserie du Dragon』に移ります。そして、この店で料理人としての頭角を現し、有名になります。1922年、自分で店を開くものの、健康を害し、休業。その後、別の場所においてレストランを再開し、ついに1933年にはミシュランの3ツ星を獲得するまでになります。盛り付けは決して繊細とはいえないが、しっかりした味と分量の料理は私の舌の記憶にも残っています。
 
クネル
  とりわけ“肥鶏のドゥミ=ドゥイユPoularde demi-deuil”“クネル グラタン仕立てQuenelles au gratin”、“子牛のフォア、パセリ風味、マカロニのグラタン添えFoie de veau persillé au gratin de macaroni”がもっとも鮮明に残っています。
 1946年には後出のポール・ボキューズが見習いとしてこの店で料理修行を始めています。
 
レイモン・オリヴェReymond Oliver(1909〜1990)
   
 
 1970年、大阪で催された<万国博覧会>でフランス館のレストランを取り仕切っていたことや、辻調の故小川忠彦先生が1969年に彼のレストラン『ル・グラン・ヴェフールLe Grand Véfour』で研修されていたことなどでなじみ深い人物です。4代続いた料理人の家系に生まれたオリヴェは『ムーラン・ルージュMoulin Rouge』のバーテンダーとして自ら飲食業界に入ります。その後、父親の紹介で料理人としてこの道を歩み始め、1948年にパレ・ロワイヤルにあったレストラン『ル・グラン・ヴェフール』を『マキシムMaxim's』の支配人から買い取り、オーナーとなります。調理場は優秀なシェフに任せ、古い料理の文献の収集やTVの料理番組出演などを積極的にこなし、レストラン料理の普及に努めます。プロの料理人の地位をメディアの力で一般に示した彼の功績は大きいものでした。
 残念ながら現在の『ル・グラン・ヴェフール』はオリヴェの息子ミッシェル・オリヴェがミシュランの評価が2ツ星に降格した時に店を手放し、シャンパンの醸造会社がオーナーとなっています。しかし、現在のシェフ、ギー・マルタンGuy Martinによってこのレストランは再度ミシュランの3ツ星を取り戻しました。メニューは殆ど変わってしまったが、内部の雰囲気はそのまま残っています。
 
キュルノンスキーCurnonsky
:本名モーリス・エドモンド・サイアンMaurice Edmond Saillan(1872〜1956)

 この人物は料理人ではありません。料理歴史家、著作家で1900年〜25年まで《ル・ジュルナルLe Journal》、《ル・マタンLe Matin》といった当時の二大新聞などに執筆活動を行い、地方料理を中心にフランス料理の真髄を収めた《美食のフランスLa France Gastronomique》(全28巻)なども著しています。1926年には読者の投票によって決める、「美食のプリンス」に選ばれています。フランス料理の素晴らしさを世界に発信した彼の功績は実に偉大なるものだと言えるでしょう。
 
 

■主任教授の知識を盗む Vol.1「日本料理の料理観 その1」畑 耕一郎 日本料理主任教授
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