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つい10年ほど前までは、ピノ・ノワールはブルゴーニュ地方の専売特許だった。
ブルゴーニュ以外では、傑出したピノ・ノワールは、絶対に出来ないだろうと思われていた。
実際、ブルゴーニュ以外のピノ・ノワールには、正直なところ、見るべきものがほとんどなかった。
この品種は、イタリアでピノ・ネロ、ドイツでシュペート・ブルグンダーと呼ばれているように、ヨーロッパ内でも広く栽培されており、アメリカやオーストラリアなどでも早くから導入されていたのだが、本場ブルゴーニュ以外でつくられたピノ・ノワールは、なぜか「これが、同じ品種か?!」と首を傾げたくなるようなワインにしかならなかった。
例外的によく出来ているものでさえ、ブルゴーニュの優れたつくり手による村名ワインのレヴェルにようやく手が届くかといったありさまだった。
一方、ブルゴーニュのピノ・ノワールの偉大さは、今さら言うまでもないだろう。
ロマネ・コンティ、シャンベルタン、クロ・ド・ブージョ、ミュジニー、エシェゾー、コルトン・・・。
ワイン・ファンなら、だれもが一度は飲んでみたいと思う垂涎の名酒が、すべてピノ・ノワール100パーセントから生れているのである。
そういう事実を前にして、ぼくも含めたすべてのワイン関係者は、「ピノ・ノワールほど、土地を選ぶ品種は他にない。もしもブルゴーニュ以外で優れたピノ・ノワールをつくりたいなら、ブルゴーニュと見分けがつかないような土地を見つける以外にないだろう」というような解説を書いていたのである。
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真実は、しかし、他にあったようだ。
ピノ・ノワールという葡萄の問題は、どうやら遺伝的な不安定さにあったようなのだ。
本場のブルゴーニュにおいてさえ、栽培しているうちに、どんどん性格が変わってきてしまう。
「この株の葡萄は、粒が小さくて、味わいが凝縮されていて、とてもいいな」
なんて思っていると、ある枝になった房だけが、バカに粒の大きい、薄っぺらな味に変化してしまったりする。
ひどい場合には、一枝だけが、白葡萄とか、ピンクの葡萄になってしまったりするのである。
そのようにして、新しく出来た品種もけっこうあって、前者の代表がピノ・ブラン、後者の代表がピノ・グリである。
ましてや、本場ブルゴーニュから離れて、ぜんぜん違う気候風土にさらされた葡萄が、どんな風に変異していってしまうかは、想像の外にある。
たとえば、オーストリアのサンローランという葡萄は、現地ではピノ・ノワールの末裔だと信じられているのだけれど、その味わいは、似て非なるものだとしか言いようがない。
ちなみに、ブルゴーニュでは、そうした変異の中から、優れた系統だけを厳選して栽培されているのだが、それでもいま現在残されているだけで40系統ほどのピノ・ノワールがあるのだという。
という訳で、話を冒頭に戻すと、ブルゴーニュ以外で栽培されていたピノ・ノワールは、どうやら、もともとあまり良い遺伝系統ではなかった品種が異国の風土にさらされて、さらに悪い方に変異してしまった、要は出来の悪い子孫たちだったようなのだ。
そうと話が分かれば、あとは簡単である。
ブルゴーニュから最上の遺伝系統の苗木を選んで導入すればいいだけのことだ。
ところが、話は、そう簡単には進まなかった。たとえば、かつてのアメリカでは、植物検疫上の理由があって、フランスからの葡萄の苗木の輸入が禁止されていたのだ。
で、以下はウワサだが、気の短い醸造家がブルゴーニュの畑から枝を盗んで密輸したというのである。一番有名なウワサは、カリフォルニアのジョシュ・ジェンセン氏が、ロマネ・コンティの枝を盗み、人工衛星でロマネ・コンティとそっくりな土地を見つけて「カレラ」という名のワイナリーを興したというものだが、ジェンセン氏自身は、そのウワサを両方とも否定している。そりゃあ、そうだろう。密輸を認めたりしたら、後ろに手がまわるし、人工衛星で見たって、地下の複雑な地層なんか分かるはずがない。
例えば、ジェンセン氏がお手本にしたとされるロマネ・コンティの畑の地下には、土質の異なる土壌が何層にもわたってパイ生地のように折り重なって存在している。葡萄の根は、その異なる地層のすべてに根を張りめぐらすことで、様々な土壌からの様々な大地の恵みを吸い上げ、それがロマネ・コンティの得も言われぬ複雑な風味の元になっているのだと言われているのだ。
衛星写真でどうとかいう、大雑把な話ではないのである。
ま、それはそれとして、現在は、正規のルートで安全性を保障されたクローンが世界に出回るようになり、それらの苗木が、実力を発揮しつつある。
アメリカのピノ・ノワールが、近年、驚くほどの品質向上を果たしていたり、あるいは、ニュージーランドで突然素晴らしいピノ・ノワールが誕生し始めた背景には、間違いなく、それらの優秀なクローンの存在がある。
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さて、最上のピノ・ノワールのワインの特長は、なんといっても、ひと嗅ぎで頭がクラクラしてくるほどに華麗な香りにある。若い頃には、ラズベリー(フランボワーズ)に代表される赤い小さな果実の香りと、バラやスミレを思わせる華やかな香りが圧倒的なまでに力強く立ち昇り、熟成するにつれて、森の下草やトリュフ、麝香などの官能的な香りが重厚に立ち現れる。
そして、ロマネ・コンティを始めとする、ピノ・ノワールの頂点とも言うべきワインたちには、そうした官能性と、繊細を極めた気品とが、奇跡のように同居している。
ロバート・パーカーを始めとする多くの評論家が、ピノ・ノワールは収穫して10年以内に飲んでしまったほうがいい、というようなことを書いているが、ロマネ・コンティは当然として、優れたつくり手による、優れた畑・優れた年のピノ・ノワールは、4・50年の歳月を軽々とまたぎこす熟成力を備えているし、そういう長い熟成の歳月を経て始めて姿をあらわしてくる信じがたいほどの深みを秘めている。(もっとも、4・50年という歳月は、ボルドーのトップ・シャトーのワインが、しばしば100年を超える熟成力を持つのにくらべれば、比較的短いとも言えるかもしれない)
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文
山田 健(やまだ たけし)
1955年生まれ。78年東京大学文学部卒。
某洋酒会社が刊行している「世界のワインカタログ」編集長。
86年に就任して以来、世界中の醸造所めぐりをし、
年間2000種類以上のワインを飲みまくる。
著書に「今日からちょっとワイン通」「バラに守られたワイン畑」(共に草思社)
「現代ワインの挑戦者たち」(新潮社)他がある。
辻調おいしいネット「コラム&レシピ」内の『今日は何飲む?』というコラムにて、
「今日は何飲む?」野次馬隊リーダーとして参加。
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